劇場

(Amazon.co.jp より)

ピース又吉直樹先生原作の映画「劇場」が、このほど映画館とAmazon Primeで公開中だ。最新作をこういう形態で公開するの、とっても素敵。おうち時間の進化が止まらねえよ。今後増えるのだろうか。

www.amazon.co.jp

一度しか見ていない映画を細かく思い出し、感想を述べるという行為が僕はちょっと苦手なんだけど、見たらなんだかすごく心が揺さぶられた感じがしたので、なるべく頑張って言葉にしてみようと思う。つまり感想文です。ネタ、バレるかもよ。

※※※

どんな映画かというと

劇団「おろか」を立ち上げたものの、酷評ばかりでなかなか軌道に乗せられない永田(山﨑賢人)。永田に偶然出会った女優志望の学生・沙希(松岡茉優)。2人の主人公の、出会いから別れまでの(たぶん)約10年間に渡る恋愛を描いた映画だ。これ以降はもう「10年間である」という体で進めますね。

監督は「GO」「世界の中心で、愛をさけぶ」「ピンクとグレー」「ナラタージュ」などの行定勲。ほろにが青春映画の名手。

なぜそばに居続けたのか

悲しい映画だった。

創作が捗らず金も貯まらず、フラストレーションばかりを募らせながら沙希の部屋でヒモ状態で暮らす永田。優しい沙希はそんな彼を励まし、笑わせようと明るく振る舞うけど、長い時間をかけて徐々に心を枯らしていき、いつの間にか女優の道を諦めていた。

永田はクズなのだけど(山﨑賢人のクズ演技が素晴らしかった。どれだけ落ちぶれても、ここぞという時の瞳の輝きが凄い)、沙希はかなりギリギリの段階までそんな彼のそばに居続けた。「さっさと別れちゃえよ!」「演劇なんか諦めて安定した仕事をしろよ!」と外野が言うのは簡単だけど、それが2人にはどうしてできないのか。この物語の核心はたぶん、そのあたりにある。

沙希

演劇をやめられない永田が経済的・精神的に沙希に甘えてしまうのは当然と言えば当然だとして、沙希のほうから決定的な別れを長らく告げないのは、好意によるものだけではない気がしている。共依存のような状態だったのかもしれないけどそれ以上に、沙希にとって永田という人物こそが「手放しがたい東京」の大部分なんだろうなと、僕は考えている。彼女のこれまでの人生、家族との関係、どんな思いで上京してきたのかなどを想像したうえで永田と過ごした日々を振り返ると、ちょっと、きつい。

それが見知らぬ人間であっても、街で声を掛けられるとつい相手をしてしまう。光熱費を払うよう永田に強く言えない。どころか自分がアルバイトを掛け持ちして生活費を稼ぐ。泣きながら怒る。怒りながら笑う。梨が好き…。

さまざまなシーンの言動・行動の陰で明確に描写されていない行間の部分に思いを巡らすことで、沙希というキャラクターの奥行きがぐっと増す。ただの舞台装置ではない1人の人間としての沙希は、愛おしく、悲しい。

永田

一方の永田に関して言うならば、演劇という文化を取り巻くシステムに色々と無理があるのでは、という気持ちが正直ある。公演のたびに長い稽古が必要だったり、チケットノルマや道具類などで負担がかさんだり…。劇団「おろか」が売れ始めるにつれて永田が日雇いバイトに行けなくなるのが、その象徴みたいな現象だ。たとえば音楽・美術・文学などとは違って、演劇は多くの場合1人では作品をつくれないし、場所も限定される。コスパがあまりにも悪い。

永田がどうしようもない人間だというのはもう大前提であるとして、それでも彼なりに演劇の道を究めようと必死にもがいていたし、その結果としてラストシーンで少しだけ道が開ける。クズにしてはよくやったのでは、と思う。

おろかな2人

なんというか、沙希も永田も不器用すぎて失敗ばかりで、それは「若さゆえの…」などと簡単にあしらえないくらいには重い。もしも出会わなければ、好きにならなければ、あんなに生傷だらけの10年間を過ごすことはなかったかもしれない。でもそれは、沙希がもっと早く東京を去ることや、永田が大衆に分かりやすく(悪く言えば)無難な演劇をつくることに繋がっていたのかもしれない。

健康に食いつないで生きていくならそれで十分だろうけど、2人はそうしなかった。できなかったのかも。何度もぶつかって、傷ついて、傷つけて、10年。「愚かだ」と一蹴する前に、沙希と永田が東京で拘り続けたもの、守ろうとしたものが何だったのかを想像できる感性を持っていたいなと思う。彼らのような人間はたぶん、東京に何人もいる。