秋の空を見上げたら

あっという間に、あれよあれよと、夏は過ぎ秋も深まりすっかり肌寒い。我が家では数日前から毛布が寝床に導入された。少しの油断で簡単に風邪をひいてしまう。昨今のあれこれもあり、シンプルな風邪にも何か特別な気持ちを抱く自分がいる。全方向から、命を守らなければ。

ここのところ、メディアを通じて色々な悲しい出来事を耳にする日々が続いている。それはテレビやインターネットの向こう側からやってくるけど、間違いなくこの惑星、この国、同じ空の下で同じ人間に起こった出来事だ。なぜなんだろう、と思う。

時代と技術が進み、僕のまだ大して長くもない人生の期間だけでも、メディアのあちら側/こちら側の関係は随分変わった。色々な人、物、場所の温度、肌触り、息遣いをずっと身近に感じることができるようになってきている。「つながり」を嬉しく感じる瞬間も、少なくない。

それと同じくらい、「届かないんだな」と思うことも、やはりある。応援する気持ちも含めて好きな音楽を買って聴いたり、好きな映画を見たり本を読んだり。僕のそういった行動の結果とは関係なく、要するにその人の作品が売れる売れないとは関係なく(あるいは関係して)、悲しい出来事が起こるときは起こる。

社会人たるもの、一つの軸だけで生きる人なんてごくごく稀だよな、わかってる。僕自身そうだ。少ないけど、いくつかの物事と上手く関係を築きながら、バランスを取りながら、それぞれから喜びや悲しみを受け取りながら、毎日生活している。そうやって僕自身はきっと成り立っている。でもなんかこう、虚しさが募るのも確かだ。最近起きた悲しい出来事の当事者の作品を、なんとなく手に取れずにいる。結構好きだったはずなんだけどな。そういう感情もあるんだな。

こんなようなことをぼうっと考えるとき、なぜだか僕は上の方を見がちだ。我ながら何を見ているんだろう。空だろうか、宇宙だろうか、もっと遠くの何かだろうか。別の形の「つながり」でも見出そうというのだろうか。よくわからんね。秋の静かな空が好きだ。